1988●厦門-杭州
 


アモイから杭州までは列車で移動。丁度、上海の近くで日本人修学旅行生が巻き込まれた列車事故があった直後のことです。

3月26日の日記から…

「朝3時半ごろ、物音で起こされる。列車は動いていない。悪い予感がする。いびきがうるさいのでウオークマンを聞きながら眠る。
6時半、列車はまだ止まっている。お湯が出ないと回りの人が騒いでいる。お湯が無いとお茶が飲めないのでみんな困っているのだ。誰かが列車を降りて近くの山のわき水を汲み、お湯を沸かした。お茶問題はこれで解決。N君は「この水は危ない」と心配している。列車は当分動きそうもない。前方で崖崩れがあったそうだ。
飯の時間になった。この時僕は、中国人は飯を食うことに命をかけているという事を知った。おそらく飯を十分に食えなかった時代の名残か。食えるときに食う。これが彼らの飯に対する信念だ。食堂車で昼飯を売りはじめると乗客が殺到した。列車が動き出す見込みはない。この機会を逸したらいつ飯が食えるかわからない。僕らも急いで食堂車に向かう。

全員必死である。千手観音のように沢山の手が伸びる。食堂車のおっさんはてんてこまいで弁当を売る。修羅場だ。思わずシャッターを切ると、おっさんに嫌われたようだ。僕には全然売ってくれない。あまりの混乱におっさんはついに怒りだした。
「もう売らない!」
弁当を求める群衆はそれでもお金を握りしめた手を伸ばす。
「売らないぞ!絶対売らない!」
すると、群衆の中の誰かが大きな声で言った
「列を作ろう!」
良識ある人たちがすかさず列を作る。食堂車の窓の近くにいた人は絶対いやだとばかりに窓にしがみつく。しかしこの状態ではおっさんは絶対売ってくれない。僕も大急ぎで列に加わる。やがて「そうだ、列を作ればいいんだ」と口々に言いながら大半の人が列に加わった。弁当は十分にあって、並んだ人は売ってもらえた。並ばなかった強情な奴等は最後まで売ってもらえなかった。」

上の写真はその修羅場の様子。そして下は弁当をほおばるN君。